南風原町の集落

琉球王国時代からある古い百姓集落10部落:

与那覇、宮城、宮平、兼城、本部、喜屋武、照屋、津嘉山、山川、神里

王国時代は、首里とのつながりが強かった士族を中心に形成された村屋取集落:新川、大名

1908年11字から、南風原村が形成。1980年から、南風原町となる。(南風原シマの民族より)

下記の表などから、1700年代半ばから、首里王府の風水的都市計画が行われていたと思われる、

琉球王国時代からある古い百姓集落10部落の、屋敷割りの線は、200年以上もの歴史を持つ。

1708年 蔡温、福州で地理を学ぶ。

1809年 間切には、王府直轄の「御風水所」とよばれる区画が設けられる場合があった。『田地奉行規模帳』

「御風水所」がいつ設置されたかは、判然としない。

村立に適当と考えられる条件、『沖縄の風水p9』

1、井戸に近い。

2、里水が、田地に流入する所。

3、村が耕地より高い所、風水の善い所。風水については、方位を正す。

風水の定義:中国では、自然を「気」の流れる一個の生命体とみなした。『沖縄の風水p15』

狭義:目に見えぬ気の凝聚する地点を、自然の環境、景観からみきわめる術。

広義:自然の環境・景観に対する象徴的解釈の体系

地霊人傑(ちれいじんけつ )

「物華天宝 人傑地霊(豊富な物産は天の賜物であり、優秀 な人材は土地の霊気によって誕生する)」

ゲニウス・ロキ   クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ

ゲニウス・ロキとは古代ローマ人が取り憑かれた観念で、ゲニウス(守護霊)・ロキ(場所の)というラテン語があらわしているように、それぞれの場所にひそむ地霊の力のようなものをさしている。

中村雄二郎は「ゲニウス・ロキは、それぞれの土地がもっている固有の雰囲気であり、歴史を背景にそれぞれの場所がもっている様相である」と説明した。

与那覇

1674年以前 南風原間切『球陽』

1674年以降 大里間切『球陽』

1713年 トーマの御獄、ウサン獄『琉球王国由来記』

1742年 南風原間切と変換『球陽』

1843年 豊見城間切高安村の人々が、スイミチを石畳にした。『球陽』

宮城

12世紀 舜天王(1166~1237)の子大里大主がムラ立てた。(伝承)

14世紀 具志川間切田場村から移り住んだ具志川安司が居城を構えたムラ。(伝承)

1647年 南風原間切『琉球国高究帳』

1674年 大里間切『球陽』

1713年 大里間切『琉球王国由来記』

1742年 南風原間切と変換『球陽』

宮平

兼城に村建てした稲福大主の長男宮平大屋子が移住して住居をかまえた。

その後、善縄大屋子(英祖王の弟の長男仲里按司の五男)が一族と共に来住。『南風原村史』

1611年 南風原間切番所が置かれる。『琉球国高究帳』

1713年 ヨコツナノ獄の由来年中祭祀『琉球王国由来記』

1731年 宮平の神殿、獄森威部、江港、火神『琉球国旧記』

1745年 _氏糸満親雲上の功績、松加那の調馬師の話し『球陽』

1868年 仲村渠築親雲上が、村屋において手習所を創設。南風原において教育発祥の地。

兼城

玉城王の末子大城按司の次男稲福大主が兼城に移住していた新屋大主の養子となって兼城にはいった。

『南風原村史』

17世紀 兼城村と見える。『琉球国高究帳』

1713年 兼城の各処祭祀『琉球王国由来記』

1731年 兼城の神殿、村名、火神、獄森威部『琉球国旧記』

1745年 「アカカシチーの由来」『球陽』

本部

ムラの成立は定かではない。戦前まで残っていた門南屋敷と門南ガー(井戸)が起源。

喜屋武 イシジャー近辺が、ムラのはじまり。、ウマチーの祭場(名護)
照屋

1713年 照屋村『琉球王国由来記』黄金森の通称イシジャーヤマに、どこからか人が移り住み、その人物の長男が喜屋武、次男が照屋、三男が本部の始祖になり子孫が広がったと伝承。

津嘉山

12~3世紀 クボーの御獄から人骨と、遺物。クンニドー毛集、落が形成された跡。

600年〜300年ほど前に存在(津嘉山村・玉那覇村・仲間村)考古学的な遺跡と伝承。

1525年 港口を改修。津嘉山は、長堂川を通して那覇と繋がっており、戦前まで盛んに利用されていた。

1713年 津嘉山村と玉那覇村しか表記されていない。『琉球王国由来記』

山川

17世紀 新垣村の村名で南風原間切に所属。『琉球国高究帳』

1713年 山川村は、東風平間切『琉球王国由来記』

1739年 南風原間切に所属。『球陽』

1768年 川田原へ集落の移動(風水が悪い)。『球陽』 風水害「南風原村史」

1847年 新垣原集落の移動回帰。『球陽』 土地が痩せて農業が振るわない。「南風原村史」

神里

1647年 南風原間切『琉球国高究帳』

1674年 大里間切『球陽』

1713年 大里間切『琉球王国由来記』

1742年 南風原間切と変換『球陽』

新川

1713年 『琉球王国由来記』

1731年 『琉球国旧記』

最初の移住者は、花城親方の一門の人々「南風原村史」

大名 士族の帰農によって形成された屋取集落。村落共同体を結び付ける、

「御獄」「根神」「ノロ」などがほとんどない。

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